Saturday, January 27, 2007

数学力

「国家の品格」 という本のなかで、現在の日本の子供の数学力が、アメリカの子供の数学力と大差なくなってきていることが書かれていた。アメリカの大学院も日本の学生に対して、冷ややかな目で見るようになっているという。

これが本当であるならば、日本の先行きが不安だし、将来外国人と結婚しようとも、自分の子供は日本で教育を受けさせたいという私の希望がかなえられるか不安になってきた。。。

子供の学力の二極化、小学校からの英語教育やこのような情報が、ゆとり教育の反動といわれるものなんだろうなと思う。
(ゆとり教育とは、平成11年前後(小渕総理大臣のころ)に始まった、完全週5日制の義務教育のこと)

熊本出身で、八高行ってて良かった!

大掃除

遅ればせながら、最近週末大掃除をする。

テレビもないし、部屋をきれいにすることで、国家試験の勉強も気持ちよくできるし、もうここに残れないというプレッシャーを自分に与えることで、国家試験に向けての意欲を増幅させる狙いだ。

必要な本は、実家に送り、いらないものはどんどん捨てていっている。
恥ずかしながら、お布団を6ヶ月以上干していなかったことについて、反省。。。(don't judge me.... I know I'm disgusting) 
布団を干すことは、大掃除に含まれないのかもしれないが、わたしには大掃除と同じエネルギーを必要とする。(ちゅまり、グータラってことなの)

片付けながら、お姉ちゃんの行ってることは正しいなと思う。片付けると気持ち良い。
細木かず子が言うように、「片付けたら良い運気が入ってくる」ような気もしてくる。(だって久しぶりに窓開けたんだもん!!)

自分のグータラさに反省

Chara

私はチャラ(Chara)という歌手が好きだ。
彼女の歌詞は理解不能なものが多いが、よく聴いてみると、何かのメッセージが含まれている気がする。
彼女はとても女性的な感覚で、同時に、論理主義とは違う視点で問題の本質を見て、解決を提示している気がする。
http://www.youtube.com/watch?v=bSF6ivc1Ulk


Thursday, January 25, 2007

情緒、形式

前にも書いたように、私は今多くの人が唱える合理主義、論理主義に対して疑問がある。

かといって反米に走り、日本人が重んじる、形式、情緒たるものに身を捧げるつもりもない。

私は日本が大好きだ、というとウソになるが、
私は日本人で良かったと思う。

無宗教でいて無神論者でないところや、衣食の文化や、アジア人らしい身なりも、世界と比べると小数派でとっても気持ちが良い。これは田舎から出てきて、都会の人と比べて方言を持っているときに感じる優越感にとても似ていると思う。

京都出身の友人が面白い話をしてくれた。
日本文化の真髄は、人をもてなすということだ。
そしてそれを極めるためにお茶の作法や華道が生まれたと。
しかし、京都の欠点は、お客様にするべき作法を、隣近所や友人関係まで応用したところだという。
だから近所づきあいをとても慎重にする必要があり、とても重荷だと嘆いていた。

私はこの話を聞いて、アメリカの合理主義と同じことが日本で起きているなと感じた。
日本文化がもつ作法や考えは、人間関係を作るうえで重宝がられるものだが、どの次元の人間関係に用いるかで、自分自身の身に多大な負担を掛け兼ねない。

私の精神を病んでる友人を見ると、幼少期の親のプレッシャーから対人関係に多大に慎重になり、それがゆえに悪循環し、対人関係を築けないという人が多いように感じる。

国際化の中、アメリカの合理主義(実力主義ともいえるかもしれない?)を盲目的に信じ込んだ社会の期待を受け、かつ日本文化を捨て去ることができずにいる人が多く日本にいると思う。

論理的に考え、今考える中で最良の方向に、柔軟に自分を変えることも大事だと私は思う。

Wednesday, January 24, 2007

論理的、合理的

今、日本国憲法改正の動きに向けて、多くの本を読もうと思っているところだ。
3月には国家試験、大学院への願書手続きなども重なっているので、自分の答えを出せるには時間がかかりそうだが、手始めとして、自分の簡単な考えを書きたいと思う。

私はとても弱い人間だと、最近感じる。
間違いを犯したくないがゆえに、とても論理的に物事を考える。
常に客観的でいるためだ。
感情というものは、出すべきときに出さないと、ただの毒であるとも思うからだ。

論理的に物事を考えると書いたが、論理主義、合理主義の代表とされる、アメリカが果たして今本当に論理的、合理的に感じることができるだろうか?世界の多くの人は、そうでないことに気が付いていると思う。

私はそれがなぜか知りたい。
合理主義がいつから合理主義でなくなったのか。(少なくとも私にはそう見える)

私の今の時点の考えでは、合理的になるところを間違えてるのではないか、と思う。
科学は普遍性を求めるがゆえに、ひとつの論理を応用することが多くある。そしてそれが違う場合にも同じようにして成り立つことが、論理的に正しい、真理として美しいとされる。
そして、その考えに基づいて、人間社会すべてを論理的に処理しようと考えたのが、アメリカではないかと、感じる。

私は論理的に物事を処理することが悪いとは思わない。
私は精神的に弱い友人や、家族を見て、常に客観性を失わない論理主義でいることの大切さを感じる。
それと同時に、論理主義を彼らに勧めようとは思わない。彼らにそれを受け入れることは今できないのは明らかだからだ。

私は論理性の限界を知りたくて、精神病の友達と付き合っているのかもしれない。

人がこんなに多様化する時代に、論理一本で人の気持ちを動かしたり、説得しようとするのは、難しいのではないだろうか。
それに気づいているといいながら、実行できている論理主義の人も少ないのではないかと感じる。
今まであった数少ないアメリカ人から得る、傲慢な印象はここから来ていると思う。

私は自分が弱いから、自分が精神を崩したときに、論理主義によって人間の片隅にも置けないような扱いを受けるのがいやだから、このような理解を示したいと思っているのだろうか。。。時々、自分がただの良い人になりたいのか、そこから何かを得たいのか分からなくなってくるときがある。