Wednesday, January 24, 2007

論理的、合理的

今、日本国憲法改正の動きに向けて、多くの本を読もうと思っているところだ。
3月には国家試験、大学院への願書手続きなども重なっているので、自分の答えを出せるには時間がかかりそうだが、手始めとして、自分の簡単な考えを書きたいと思う。

私はとても弱い人間だと、最近感じる。
間違いを犯したくないがゆえに、とても論理的に物事を考える。
常に客観的でいるためだ。
感情というものは、出すべきときに出さないと、ただの毒であるとも思うからだ。

論理的に物事を考えると書いたが、論理主義、合理主義の代表とされる、アメリカが果たして今本当に論理的、合理的に感じることができるだろうか?世界の多くの人は、そうでないことに気が付いていると思う。

私はそれがなぜか知りたい。
合理主義がいつから合理主義でなくなったのか。(少なくとも私にはそう見える)

私の今の時点の考えでは、合理的になるところを間違えてるのではないか、と思う。
科学は普遍性を求めるがゆえに、ひとつの論理を応用することが多くある。そしてそれが違う場合にも同じようにして成り立つことが、論理的に正しい、真理として美しいとされる。
そして、その考えに基づいて、人間社会すべてを論理的に処理しようと考えたのが、アメリカではないかと、感じる。

私は論理的に物事を処理することが悪いとは思わない。
私は精神的に弱い友人や、家族を見て、常に客観性を失わない論理主義でいることの大切さを感じる。
それと同時に、論理主義を彼らに勧めようとは思わない。彼らにそれを受け入れることは今できないのは明らかだからだ。

私は論理性の限界を知りたくて、精神病の友達と付き合っているのかもしれない。

人がこんなに多様化する時代に、論理一本で人の気持ちを動かしたり、説得しようとするのは、難しいのではないだろうか。
それに気づいているといいながら、実行できている論理主義の人も少ないのではないかと感じる。
今まであった数少ないアメリカ人から得る、傲慢な印象はここから来ていると思う。

私は自分が弱いから、自分が精神を崩したときに、論理主義によって人間の片隅にも置けないような扱いを受けるのがいやだから、このような理解を示したいと思っているのだろうか。。。時々、自分がただの良い人になりたいのか、そこから何かを得たいのか分からなくなってくるときがある。

1 Comments:

Blogger ya said...

わたしも思います。いつも論理的・合理的であれたら、どんなに楽な気持ちで過ごせるかと思うけど、やはりそうはいきません。
むしろ、逆もある、逆であってもいい、と思えたら。。。そう考えたら、少し楽になるかな、と。自分は本当は弱い。だけど、強い自分でいたいとか。

4:58 AM  

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